キミは沿線の移り変わりを見てきた目撃者だった
高橋嘉彦(写真と文)
(すいせん人)
山田洋次氏(映画監督)
中村梧郎氏(フォトジャーナリスト・前岐阜大学教授)
関 次男氏(写真家)
81歳の鉄道ファンが知った沿線史話から「消してはならない地域史」を選び、その関連史料と50年前の記録写真を重ね合わせた鉄道沿線史を書きあげた。
歴史にはさまざまな顔がある。すっかり消えてしまった歴史があれば、後世に伝えなければならない大切な歴史もある。封殺された歴史もあれば、故意に作られた欺瞞の歴史もある。こうした懸隔は今も続いている。
私は50年前、ふとした機会から全国の鉄道沿線を渡り歩いた。その頃、汽車は元気だった。明治以来、走り続けて100年。汽車は、沿線地域にとって移り変わる時代の証言者・目撃者だった。そんな私の「汽車観」から、沿線の歴史や風物にゆかりある当時の写真を取り出し、これと関連する文献・郷土史などとを重ね合わせたスタイルの沿線史話を次世代の皆さんに伝えようと書き綴ったのが本書である。(本書・序文より)
260ミリ×260ミリ
124ページ・上製本
3,800円+税+送料
『西日本新聞』(くらし) 2019年9月7日号掲載
『北海道新聞』(読書ナビ) 2019年9月15号掲載
『鉄道ファン』 2019年10月号掲載
『鉄道ピクトリアル』 2019年10月号掲載
『しんぶん赤旗』(読書) 2020年2月2号掲載
<目 次>
■峠の汽車■汽車を動かした人たち■アイヌ首長の蜂起■田中正造の遺志を継いだ黒沢牧場■樺太引揚者の証言■函館トラピスト修道院の戦中期■『夜明け前』で気づいたこと■忍者のふるさと■出雲平野の築地松■筑豊炭田が近現代史に刻んだもの■肥薩線の大惨事■新潟水俣病の阿賀野川■保津峡■備中高梁■ヒロシマ■萩・民を泣かせた殿様と志士たち■筑後川■「駅」わが故郷の原風景■夏目漱石「汽車論」の辿り着くところ■鉄道ファンの写真ナショナリズム■昭和新山ものがたり■宗谷丘陵の不思議など
筑豊炭田が近現代史に刻んだもの
知られざる零細炭鉱生活者の惨状
かつて福岡県筑豊地方には、日本地図に載らない山があった。「ボタ山」と呼ばれた山である。 1950年代始めの朝鮮戦争勃発の時期には、この筑豊地方だけでも300のボタ山があったという。
60年代を振り返ってみると、当時マスコミが取り上げていた取材先は、炭労(日本炭鉱労組)に加盟している大手の動静がほとんどだった。派手に大立ち回わる組合闘争の陰で、大手以上に追いつめられていたのは零細だった。組織力の乏しかった零細炭鉱の坑夫やその家族の生活はどんなに悲惨な状況にあったか。むしろ放置されていた知られざる零細の実態に近づこうというのがこの稿の本旨である。(冒頭の一部)
余命いくばくもない運炭列車が行き交う沿線。しかしこの地からは何千という多くの坑夫が職を求めて家族とともに棄民のように全国に散っていった。おびただしい数の炭住の棟々は消され、まさに、広大な宅地に変わろうとしている。人間のすべて(生活、未来、生命)を収奪し尽した風景は、こうして葬り去られた。筑豊本線 中間附近
広島・ヒロシマ・ヒバクシャ
遠い少年時代の追憶を辿る
1971年8月、私は広島駅頭に立っていた。何度来てもなにかがちがう。緊張するのだ。この町だけは。「ヒロシマはどんな町か」とたずねられた。オタワで、リヨンで、ハイデルベルクで。「日本人だ」の名乗っただけで。
いま、私の手元に1枚の写真がある。米軍の従軍カメラマンだったオダネルさん(故人)が被爆後の長崎で撮影した数百枚の中の1枚、『焼き場に立つ少年』である。
両親も失い、ただ1人で幼子を火葬にする少年が、正面の炎を食い入るように見つめている直立不動の姿勢には、誰彼なく目をくぎづけにさせる。私がこの少年と近い年齢だけに、彼を思う気持ちはなおさらだ。
オダネルさんは原爆を投下した側の米国人でありながら、原爆投下正当論の根強い米国内で、核廃絶の写真展を開き続けた。
では、被爆国の日本はどうか。
2017年8月9日、被爆72年を迎えた長崎の被爆者代表・川野浩一さん(77)は、7月に国連で採択された核兵器禁止条約に背を向けた日本の総理大臣に向かってこう言い放った。
「いまこそ日本が、世界の核廃絶の先頭に立つべきときではないか」
「あなたは、私たち被爆者を見捨てるのか」
「あなたは、いったいどこの国の総理か」(本文より抜粋)
ある文学作品を生んだ筑後川
大野島島民苦節の史話
辻仁成の小説『白仏』の舞台は大野島。筑後川河口の中洲であり舟運河港の渡津集落を形成していた。この島に生れた主人公はシベリア出兵から帰還後、島に眠る三千体の骨で一体の仏像を作り上げるという話。物語は貧しい生活を強いられた大野島島民の歴史にからむ実話であり、作者の祖父をモデルにしたものだった。島に潜む大正・昭和期の過去の出来事を数多く紹介しているが、文体が滑らかで感情豊かな作品である。(本文より抜粋)
情感よんだ、別れ見送りのホーム
1950年代も後期の頃から若者世代の大都会移動が始まり、故郷を離れる別れのシーンが唄の世界に現れてきた。
矢野亮作詞『リンゴ村から』では、離れていく列車に向って小雨のホームを泣き泣き走った青年の心情を描き、小山敬三作詞『ふるさと列車』では、名残惜しんでくれたひとの別れの言葉を聞きながら故郷を去っていく青年の思いを綴っている。いずれも青春時代の原体験を表現した抒情的描写は、多くの国民の共感を得たのだった。
蒸気機関車時代は、発車をしても加速するまでに10数秒の時間がかかった。このわずかな時間こそが、別れ見送りの情感漂う情景描写の名場面として、映画の世界でもよく登場した。 まず思い出すのに、ビリーワイルダー監督の『昼下がりの情事』(1957年作品)がある。その場面を再現してみよう。
中年紳士ゲーリー・クーパーは、いま汽車でパリを離れようとしている。動き始めた列車のデッキに立つ紳士に、駆足でホームから速度に合わせて言葉を投げ続けるのは音楽院生のオードリー・ヘップバーン。速度を増す列車。小走りに変わる彼女。ホームの端が近付いてくる。必死の彼女は惜別の言葉が涙声に──。紳士は意を決して身をのり出し、思いきって彼女を抱えて列車に拾い上げる。
世界中の観客が手を叩いただろうこのラストシーン。ここで見せたそろり、ゆっくりの汽車がもつ役割はあまりに大きかった。(本文より抜粋)
ごあいさつ
出版は2度目です。
今回はビフテキにカレーをぶっかけたような内容満載のものになりました。
山田洋次監督をはじめ、巨匠の推薦もいただき、幸せな図書の誕生となりました。
ご購読をよろしく、よろしくお願い申し上げます。
(注文先)
東銀座出版社
03-6256-8918
info@higasiginza.co.jp